神様は います

神様。
この存在を初めてゃんと認識し、自分の人生に登場したのは「ドラゴンボール」だと思う。

宗教的な神様ではなく、あの緑色の肌の色のピッコロ大魔王を生み出した神様。
神様と言うわりには死ぬし、全くもって全能じゃない神様。
なんなら自分自身で作り上げた神龍の方が神様感が強い。
神龍は死んだ人間をも一度は蘇させるパワーがあり、壊れた物を再生するパワーもあり、さらにはギャルのパンティーを空から降らすパワーもある。

でもそんな神龍も死にます。

自分と同年代の男子の神様の概念はほぼドラゴンボールなんじゃないか?
って思うくらい、影響を与えました。

ギャグを取り入れてる漫画でもあるので、
神様でも死ぬし、神様でも万能じゃないし、って感じの神様。

良い意味で神様の概念が今自分が思ってる神様の概念とほぼ似てる

全知全能の神はいない。
とされてもうかなりの時間が経ったと思うけど、
(神は妄想である、リャード・ドーキンスとかを読む限り)

 

今現在思う事は
神様はいる』です。

そして
全知全能の神はいないかもしれないしいるかもしれない』です。

確かに人間の考えや科学では全知全能の神は100%いないと思うけど、
その範疇を超えてこられたらどないしよ?
って部分にロマンを感じたりしてます。

非科学的でありオカルトなのは知りつつ、ロマンを感じております

神社に行っては神の存在を感じ、、、、

れる神社もあれば、ニーェばりに「神は死んだ」と言わざるをえない神社もある。

そもそも日本の古い信仰では神様は万物に宿るとし、主に自然が神様でした。
その信仰を神道で言うなら古神道と言います。
物部神道とも言います。

一方立派な社を建て、そこに神を宿してるのが最近の流れ。
その信仰を現在は一般的に神道と総称されます。
秦神道とも言います。

ぶっゃけて言うと古神道の方が大好きなんだけど、
神道の立派な社も大好きです。

そもそもなんで古神道で自然を崇拝してた民族が、社で神を拝む事になったのか?
はおそらく「カモがネギを背負ってやってきた」ってのが有力だと思ってます。

カモとは鳥の鴨の事を言ってるのではなく、
下鴨神社や上賀茂神社などの賀茂氏の事で、
ネギは食べるネギじゃなく、神職の総称である禰宜の事を言います

つまり賀茂氏が禰宜を全国に派遣し古神道スタイルから現代のスタイルの神道に切り替えた。
(現代は国家神道などもあるけど)

それで今まで自然の神が宿っていた場所に社を建ててそこに神の御霊を分けて鎮座させた。

でもこのスタイルで逆に良かったんじゃないかな?
なんても思うわけです。

理由としては、
自然を大切にする人はそこまで多くないけど、神を大事にする人は意外と多い。

(大切にしてないわけじゃないけど自然よりも神や社の方が意識が向きやすいかと)
つまり、社が建ってる場所(自然)を大切にする人が増える。
そして未来までもその土地が守られる。

と思ってるから。

でも、最近の神社は人氣が出ると、比例して人が多く訪れるので、今までの整備では追いつかず、現代土木工事をし、コンクリで敷地を埋め尽くそうとする傾向があります。

それをやっゃうと、時間をかけて土(微生物)が死に、土中の水は腐り、空氣の循環が起きず、次第に土地が死んでいきます。

古神道で言う神様が死ぬわけです。

流行ると維持費も捻出できるけど、
そもそも維持するべきはなんだっけ?
ってのを考えさせられます。

それで、この古神道の神様。
自然という神様はいるもなにも在る。
となるので、神様はいるというか在る、わけです。

聖書の「わたしはある。わたしはあるという者だ」
(出エジプト記3章14節)
みたいな感じかなぁ?いや、と違うな。

神道の神様はどうだろうか。

天照大神、月夜見尊、須佐之男命
国之常立神
豊雲野神
宇比地邇神・須比智邇神
角杙神・活杙神
意富斗能地神・大斗乃弁神
淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神
伊邪那岐尊・伊邪那美命
天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神

挙げればきりがないくらい大勢おられるのでこの辺で。
(失礼ですが)

神話の神ではないけど、天皇陛下も神様的な存在ですね。
(いや、現人神という神ですが)

そんな天皇の初代は神武天皇とされているけど、
人物としての初代天皇は応神天皇とされています。

神武天皇は神話、応神天皇は現実。

神話のお話なのでいたかどうかは確認取れないけど、
とりあえず祀られてる神社に行くと何かわかるのか?
でここ数年データを取ってまして。

取ってまして、
って言っても古事記に載ってるような学問や歴史的なのを調べる顕教と、
その場のエネルギーを感じたり調べる密教。
その二つでデータを取ったので、後者の方は本当かよ。って言われたら何も言えねーってなるので、本当かよ。っていう人とは何も言わねーってスタイルに切り替え完了してるのでこのまま先に進めます。

それで、古事記や日本書紀に載ってる学問的・歴史的な部分だけでも、相当な暗号が仕掛けられていて、社伝とか看板を見ただけじゃ何も理解できないなー、って感じたので、いろんな書物などを辿り調べました。
(ほんの一部しか調べれてない、日本全国となるとおじいゃんになってもやってないと終わりに近づけない)
(3回人生があるなら調べ尽くせるかもだけど)
(調べてもセンスと直感とかがないと文字を見てるにすぎない)

エネルギー(氣)的に感じたら、
祀ってる神様が同じなら雰囲氣が同じ、って神社もたくさんありました。

祀ってる神様が同じなのにエネルギー・氣が全く違うところも多々あるので、
データ取ってると何のこっゃわからなくなる事も頻繁に。

それでも何年もやってると突然キュイーン!!って何かが繋がり、脳内で氣付きが得られるんです!

言葉では伝わらないし、他の人には伝わらない個人的な感覚としては、
神様と言われてる『何か』はいる、って確信に繋がります。

よく神様と会話する人っているじゃん?
自分も会話してみたいんだけど、
【そこに在る】だけで、基本会話は起きません。

 

その代わりインスピレーションだけはちょこちょこくださいます。

(自分の場合養蜂も農業もインスピレーションを頂いたのでやれております)

神社で感じてる『何か』的な存在と
「わたしはある。わたしはあるという者だ」
というのは結構近いのかもしれません。

そこで仮説です。

神はいる。
って事で話すけど、
神って存在を、人間って存在と比較的なフィルターを通したらダメなんじゃないか?って思うんです。

神って一人(一体)なんじゃないかな?
って思っております。

ろん、感じるエネルギー・氣も違うけど、
神のどの側面、一面を見てるのか?(見せてもらってるのか)

見方でエネルギー・氣も変われば、名前までも変わる。

つまり、

天照大神も月夜見尊も須佐之男命も同じ存在。

国之常立神も伊邪那岐尊も伊邪那美命も同じ存在。

全ては一つに繋がっている。

ただし、違う見方をした時に
天之御中主神(父)高御産巣日神(子)神産巣日神(聖霊)
となり、
天照大神(子)月夜見尊(聖霊)須佐之男命(父)
となり、
キリスト教の三位一体的な感じにはなるが、
キリスト教が言う三位一体とは違ってて、三位三体が正しいと思う。

全ては一つに繋がっていると言っても全てが集まり1になるとは思ってない。
(まだがっつり上手く説明できない、ごめん)

造化三神である
天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神は同一な存在ではなく、別の存在。
とする三柱構造。

日本の神道ではこの三柱の神を拝むので「参拝」と言う。
(三と言う漢字は昔は参(旧字:參)とも書く)

でも何を書こうとも神の存在を証明するには至らないわけです。

福地真也は神はいる。
神はただただ在る。
と存在を感じれてはいるけどさ☆

それを証明も出来なければ、見せる事も出来ない。
もし出来るとしたら、自分が存在を感じてる場に一緒に行き、感じてもらう事は出来そう。

だからこそ神社に一緒に行ったりしてんだよね。

もし、この自分が感じてる感覚がただの勘違いだったとしたら。。

っても考えたけど、認知とか心理学とか色々勉強した上で話すけど
勘違いとも言い切れない。

それでも勘違いだったとしても、
この感覚を知らない現実より、勘違いでも感じれてる方がめゃくや面白い!!って事♪

でもね。
そのう出てこられると思うよ。

人知を超えた声なき主が。

その存在がどこまでの人知を超えてるのか?
壊れたものを全く同じに再生する能力があるのか?
科学技術が先を行き過ぎてる存在なのか?
地底という亜空間から現れる人類なのか?

ただ  思うよ。

亜空間からもやってくるし、
設計者もやってくる、と。

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